電気は悩む「私はいったいなんなのだ」

今回は趣向を変えて、わたしが以前(1998年)出版した本のなかから、一話選んで投稿します。
建具や家具が、夏目漱石の「吾輩は猫である」のように、擬人法で語る80話のうちのひとつです。カットも本に掲載しているものです。(電線の写真は投稿のために撮ったもので、本とは関係ありません)
この本は、地元紙の別刷りに連載していた読み物を、連載終了を機に一冊にまとめて出版したもので、「冗舌なやつら」というタイトルです。

「私はいったいなんなのだ」

 私は電気だが、自分の存在が不思議でならない。というのは自分の姿がわからないからだ。
 私は毎日たくさんの電気製品を稼働させているが、どれひとつとして私の実体が見えるものはないのだ。たとえば電灯は光を発するが、それは私がつくりだしたものであって私自身ではない。同様に、テレビは映像や音声などを出すがそれも私自身ではない。ときには電池に充電されて持ち運びされたりするが、そのときの人間は電池に入れた私を持っているわけで、私をむきだしで持っているわけではない。つまり、間接的には人間の目や耳に触れるのだが、実体には形もなければ色や臭いもなく、見ることもさわることもかなわないのだ。
 それに、居場所は電線や電気コードの中だが、こんな狭い場所にどうやって「居る」のかだって自分でわからない。私が居ても居なくても電線の重さや形が変わるわけでもないし、私としてもきゅうくつだとも思わない。これではまるで狐狸(こり)妖怪同然ではないか。いや、連中は見えるだけまだましだ。ああ、私はいったいなんなのだ。

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と、いくら悩んでもしかたがないのでスイッチを切り換えよう。
 それにしても私はよく働く。照明器具をはじめ、洗濯機も掃除機も、炊飯器も電子レンジも、冷蔵庫もボイラーも、テレビラジオも、エアコンも電気ストーブも、すべて私が動力源なのだ。ついでにもう一言いわせてもらうが、これほど器用にいろいろなものを動かし、七変化どころか千変万化して役に立つのは私以外にはおるまい。家電製品は便利だと、人間はそっちにばかり目を向けているが、立役者はじつは私。家電製品の活躍だって私あってのもの、私こそ真のヒーローなのだ。
 なのに、私が家人の意識にのぼるのは「料金」くらいで実体はほとんど無視。こんなことなら狐狸のほうがまだ存在感がある。ああ、もうこんな生き方は「こりごり」だ。

dnk

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