
鯉の滝のぼりは不可能?
江戸時代の武家社会では、「菖蒲の節供」と称し、家紋を染めた旗差し物や幟(のぼり)などを玄関の前に飾ることが流行しました。
江戸時代中期からは町民が武家に対抗し、鯉をしるした幟を飾るようになりました。お察しの通り、これが鯉のぼりの始まりです。
この幟は後に紙製になり、さらに、幟の麾と呼ばれる小さな旗へと変わります。それが最終的に、現在のような吹き流し型に変わって落ち着いたというわけです。
鯉は立身出世の象徴とされていますが、この言い伝えは中国の「竜門伝説」の故事がもとになっています。
竜門とは、中国の黄河上流にある急流で、これをのぼりきった鯉は竜になるというものです。
これをアレンジし、立身出世や人生の転機となるような、関門や試験などに置き換えたのが、俗に登竜門といわれるものです。
鯉は日本の淡水魚のなかではもっとも大きくなるクラスに属し、1メートルほどにまで生長する大物もいます。
この貫禄と風格は古くから讃えられ、鑑賞魚としても高い価値と存在感を持っていました。
ところで、「鯉の滝のぼり」も竜門伝説から派生した言葉ですが、ことわざや掛け軸の絵の勇ましさとは裏腹に、本物の鯉が滝をのぼるのは、まず不可能なようです。鯉はジャンプが苦手で、水面からわずかに体を出して反転するのが精一杯だそうです。
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鯉にまつわることわざ
話のついでに、鯉が登場することわざを拾い出してみましょう。
「五月(さつき)の鯉で口ばかり」。鯉のぼりがもとになっていることわざで、口は大きいけれど腹はからっぽなことから、口は悪くても気性はさっぱりしているというたとえです。「五月の鯉の吹き流し」というものもあります。
「浅みに鯉」。これは、浅い所にいる鯉は捕まえやすいことから、棚からぼたもちなどと同じく、思いがけない幸運をつかむこと、という意味です。
「生簀の鯉」。生簀(いけす)というのは、捕らえた魚を飼っておく場所のことです。つまり、生簀の鯉とは囚われの身のことを言います。
「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し」。これには二通りの解釈があります。一つは、「江戸っ子は言葉が乱暴でも根は善人。腹にはわだかまりがなくてさっぱりしている」というもの。
もう一つの解釈は、「江戸っ子は口先だけ威勢がよくて中身がない」というもの。
「及ばぬ鯉の滝登り」。これは、いくら頑張っても自分の力が及ばず、目的を遂げられないこと。
魚の鯉に恋愛の恋を引っかけて、叶わぬ恋のことをいう場合もあります。
「牛蹄のしんには尺の鯉無し」。牛蹄は牛の蹄のことで、ここでは牛の足跡のことです。しんは溜まり水、尺は大きさの単位の一尺のこと。
つまり、「牛の足跡ほどの小さな水溜まりには、一尺もある大きな鯉は棲めない」という意味で、どんな大人物も、狭苦しい所では能力を活かしきれないという例えです。
「俎板の鯉」。これはご存じと思いますので説明は省きましょう。
「麦飯で鯉を釣る」。これと同じ意味でよく知られたものに「海老で鯛を釣る」というものがあります。
つまり、少ない元手で大きな利益を得ること、あるいは得ようとすることです。